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アスラック チェア

普遍的な木製の椅子を求めて

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イルマリ・タピオヴァーラは、フィンランドを代表するインテリア専門の建築家でありデザイナーです。ペッカ・コルヴェンマーから、才能あふれるデザイナーと今でも愛され続ける彼が手掛けた椅子について話を聞きました。

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「アスラック チェア」とはどんな椅子でしょうか?

アスラックチェアは、普遍的かつな多目的な椅子を追い求めたイルマリ・タピオヴァーラの終着点です。彼は、人々の手に取りやすい価格にするために、コストをできる限り下げ、大量生産し続けることができる企画的な製品を作りたいと思っていました。「ドムス チェア」など、彼のその他の製品同様、人間工学に基づいてデザインされたアスラックチェアはとても心地よい快適さを生み出してくれます。

イルマリ・タピオヴァーラが多目的性の高い椅子を追求したのはなぜだと思いますか?

それは、モダニズムの考えが北欧諸国にも広がった1930年代、イルマリ・タピオヴァーラがまだ学生だった時まで遡ります。モダニズムは、上流階級やお金持ちだけでなく、すべて人々が平等に優れたデザインを享受できる世界を目指し、当時の最新技術と最新のデザインやアートの融合に挑んでいました。学生だった彼のヒーロー、それはモダニズムをさらに独自の解釈でヒューマンモダニズムを打ち立てたアルヴァ・アアルトでした。イルマリ・タピオヴァーラが小さなアパートで暮らしていた学生時代、学生であってもアアルトの椅子を買い、使うことができました。それが、イルマリ・タピオヴァーラのデザインの原点になっていると想像しています。また、戦後フィンランドは、人口の増加と生活水準の向上により、用途や環境を選ばない多目的な椅子の需要も高まっていました。福祉国家として成長する過程において、新しい学校、デイケアセンター、病院が多く作られ、同時に手頃な価格で、かつ多目的に使える家具の需要が生まれました。

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アスラックチェアはどのような過程について教えてください。

1946年にドムスチェアをデザインした時、イルマリ・タピオヴァーラの最初の構想は、背もたれ、脚、肘掛けまでが有機的に繋がる椅子でした。しかし、戦後間もない状況で、彼の構想と図面を実現できる工場は見つかりませんでした。結果として、ドムスチェアはバーチ材の部材を組み合わせた椅子として完成しました。後年、世界最大のプライウッド工場の一つであったフィンランドの会社Schaumanでの生産を目指し、アスラックチェアのデザインを描きました。最初の構想から12年後の1958年、生産技術の進歩により、ついにその夢が形になりました。アスラックチェアは、イルマリ・タピオヴァーラが思い描き続けた椅子であり、さらにドムスチェアの進化版とも考えることができます。

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タピオヴァーラは、誰もが良いデザインを享受できる世界を目指していました。社会的責任とも思えるような彼の考えが表現されたデザインは他にどのようなものがあるでしょうか?いくつか例を挙げていただけますか?

イルマリ・タピオヴァーラは、1930年代の北欧モダニズムから派生した、民主的で平等な「みんなのためのデザイン」というデザイン哲学を持っていました。彼は生涯この哲学を胸にキャリアを重ねました。晩年、国際連合のデザイン大使としてパラグアイやモーリシャスを訪れることになった理由の一つです。また、彼はフィンランドのデザイナー協会 Ornamo の会長を長らく務めていました。フィンランドデザインをさらに世界へと広め国際化したいと考えていた彼は、デザインで表現するだけでなく、さらに政治的な立場からも世の中に呼びかけました。1930年代、ロンドンでキャリアを積んだ後、パリのル・コルビジュエの事務所で研修生でもあった彼は、1937年のパリ万国博覧会も経験しました。彼が当時においていかに国際的であったかが分かるでしょう。さらに1952年から1953年まではアメリカで教鞭を執りました。イルマリ・タピオヴァーラは、自らのデザインを宣伝するということではなく、フィンランドデザインすべてを世界に知らしめる役割を担いました。彼の興味は、デザインそのものではなく、社会におけるデザインの役割という、より大きな問題でした。

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イルマリ・タピオヴァーラはまるでルネッサンス時代の人だったという話も聞いたことがあります。

イルマリ・タピオヴァーラは幅広い興味と才能を持っていました。彼は若い頃、木彫りの彫刻やグラフィック、映画のポスターを手掛け、兄はフィンランドの有名なモダニズム映画の監督でした。デザイナーとしても、彼は家具だけでなく、ステレオ、プラスチック製のボート、サウナストーブ、ポータブルグリル、カトラリーなど幅広い製品を生み出しました。アアルトの想いと哲学を受け継ぎながらも、小さな雑貨から大規模な建築までを手掛けたタピオ・ウィルカラを手本とし、デザインの力がすべてを解決すると信じていました。

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ヘルシンキの学生寮「ドムス アカデミカ」の学生用の部屋。1946年にイルマリ・タピオヴァーラと妻のアン二ッキがインテリアデザインを手掛けました。

イルマリ・タピオヴァーラは福祉国家フィンランドの構築に貢献したとおっしゃいました。学生寮「ドムス アカデミカ」以外に病院などの公共施設のインテリアを手掛けた事例はあるのでしょうか?

1950-60年代のフィンランドのデザインはとても家庭的でした。陶磁器、ガラス、織物、衣服、敷物、家具などは主に一般家庭用にデザインされていました。イルマリ・タピオヴァーラにとって重要だったのは、その椅子が公共スペース用か家庭用かということに関わらず、適切な価格な大量生産が可能であることでした。50年から60年前にデザインされたタピオヴァーラデザインの椅子は、現代においても尚、家の中、ホテルのロビー、駅、レストランなどその他の公共スペースまで場所や用途を選ばず使い続けられています。

Photo 1: Emilia Hänninen / Designmuseum, Helsinki. Photo 2: Mikko Ryhänen. Photo 3: Jussi Pohjankallio / Designmuseum, Helsinki. Photo 4: Zara Pfiefer. Photo 5: Kuvakiila. Photo 6: Designmuseum, Helsinki

イルマリ・タピオヴァーラによる普遍的な木製の椅子